私たちは爆発のイデアをもっているのか

今週のお題「爆発」

 

高校生の頃、倫理でイデア論というのを習った。プラトンだったか、リンゴでも人間でもこの世には完璧な概念とでも呼ぶべき「イデア」があって、我らが普段見ているのは不完全な似姿でしかない。そんな考え方だったと思う。

最近、というよりここ10年くらいなのだけれど、CGでつけられた爆発や炎の演出、動物を模したポリゴンのモーションを見るたび、タイトルみたいなことを考えている。

 

私はゲームの炎エフェクトというとスマブラのネスくらいしか思い浮かばないのだけれど(「PKファイア!」である)、最近は古代ギリシャの世界でオリンピックの儀式をしたりもできるらしい。藤村シシンさんが解説者として呼ばれている動画を見た。
その実況動画に松明?で燃えている炎のエフェクトが映っていて。その炎を見たときに「今のCGはだいぶ本物っぽい動きを再現できるんだなあ」と思った。そして次の瞬間に、「”本当に”そっち向きの理解で合っているのかな」とも思った。

つまり。

CGの炎の動きや色みの変化がより実物に近づいたのではなく、見ている側の私たちがCGの炎に慣れてきてるんじゃないか? 実写の炎を見る機会が減って、その分CGの炎を見る機会が増えたことで、CGエフェクトの色や動きに「なんか違う」感を覚えなくなってるのではないか?

 

IH調理器が普及し、蚊取り線香がなくなり、家の前でする手持ち花火は非難され。私たちの生活は、炎を見る機会がどんどん減ってきている。爆発なんてなおさらだろう。
今や私たちが大きな炎とか爆発とかを見るのはテレビ番組やYouTube動画やゲームの中で、今や発達したCG技術は、そういうものの「実物を撮るにはコストがかかる」炎や爆発や雷を表現するため至る所に使われている。

そんなこと言ったって私が子どもの頃だって生の炎を見る機会はそう多くなかったけど。それでも私が子どもの頃は仮面ライダーのバイクが走るのに合わせて地面に埋まってた火薬が爆発するものだったし、バラエティの爆発演出はけっこう火薬を使っていたし、世界仰天ニュースは大事故の報道映像をそのまま持ってきていたりした。日曜の朝とか平日の7時とか、なんとなくテレビがついている時代だった。熱心に見るわけではないけれどなんとなく流れている「そういうもの」から、炎の動きとか倒れる木とか家が焼け落ちたときの崩れ方とかのデータが溜まっていたんだろうと思う。イデアが形作られていった、と言ったらプラトンさんに怒られそうだけれど。

それらは意識して積み重ねたわけじゃないから表現として再現することは難しいけれど、見かけを模したものを出されたときにイデアとの差異を無意識に拾って「なんか不自然」とか「本物だったらここがこういう風に動く」とか感じていたんじゃないだろうか。

 

身の回りに溢れたCGエフェクトにすっかり慣れた私たちは、CGが「本物に近いか」ではなくて、「本物っぽいか」しか感じなくなっているのではないか。
そのことはけっして不幸ではないと思うけれど、CGエフェクトの爆発をたくさん見て育った次世代の彼らがいざCGエフェクトをつけるとき、それが果たして現実の、物理現象の爆発とどのくらい一致しているのかには少し興味がある。

CGの炎でイデアを形成した彼らは、火薬と点火装置を使った爆発(おそらくエフェクトよりずいぶんと地味に見えるだろう)を見て「自然」と感じるのだろうか。