共有する天国

頻度のばらつきがありながら5年ほど、教会に顔を出している。通っているといえるほどの頻度ではない。
ミッション校の出身なのもあり、教会は個人に踏み込まないで交流の温かさをもらえる場所と認識しているのかもしれない。マイナス思考のループに儀式的手順は一時の平穏をもたらす。と思う。

宗教の役割の1つに、死後を「わからない」から「わかる」にすることがあると思っている。わからないことは不安と恐怖を呼ぶ。地獄でも修行でも形と名前があるほうが安心するのが人間なのだろう。キリスト教の死後、「天の国」。何年も礼拝に参加しているけれど、未だにこれが安心できるものらしいことに理解やら共感やらがいまいちわかない。脅かされない傍観者であることはある種の安心を呼ぶが、自分たち以外が破滅しているのが見えるのに傍観するしかないこと、思考はできるのに新しい刺激もないこと、どちらかといえば恐慌を思うのだけれど。

推しが一緒にいる空間で推しのことだけをずっと見て聞いて思っていていいから幸せってことなんだろうか。